新着情報

ない々尽くしの高浜原発   2014年7月

 宮崎からのおたより   2014年4月

 

カタツムリのスピードで   2013年10月  

憲法の条文をアートにして発表した河合さん。福井金曜デモ

集会で必ずうたわれる「原発いらない」のミュージッシャン河合さんの思い

 

 釧路駅前の金曜デモに参加しながら、鶴の写真を撮っていた酒井さんの報告  2013年4月

 

ボランティアに出かけた福島で高遠さんに出会い、さらに新しい境地を開いた渡利さんの 体験記

 2012年5月

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  会員投稿 のうなれ原発

この欄は、原告・会員からの投稿を掲載しております。
「のうなれ」とは、福井弁で「なくなれ」という意味です。

       

 防潮壁、免震重要棟、ベント施設… ないない尽くしの高浜原発

                                  福井県高浜町在住 東山幸弘

            2014年7月

 日本消費者連盟(http://nishoren.net)発行の「消費者リポート」2014年7月7日付 第1561号にシリーズ「原発再稼働と名指しされた地域から」第4回目として、掲載されたものに加筆したものです。

 

 福井県若狭は35km圏内に4サイト15基もの原発がひしめく世界一の「原発銀座」です。東電福島第一原発の事故後、その原因を検証しないまま関西電力は大飯原発3、4号炉を再稼働させました。これに対し、全国から189名が運転差し止め訴訟を福井地裁に起こし、2014年5月21日、福井地裁は「大飯原発3、4号機を運転してはならない」と画期的な判決を下しました。原告の一人として、その法廷にいて目頭が熱くなりました。


 この判決は大飯原発だけの問題でなく、「大きな自然災害や戦争以外で、この根源的な権利(生存を基礎とする人格権)が極めて広汎に奪われるという事態を招く可能性があるのは原子力発電所の事故のほかは想定し難い。」と、原発がかかえる根源的な問題に踏み込んでおり、「原子力発電所は、電気の生産という社会的には重要な機能を営むものではあるが、」としても人々の生活や命より優先する経済活動が認められることはないと。これまで裁判は「原発問題」を避けていましたが、「フクシマ」の現況を見て、司法としての立場を明瞭に示したものと言えます。

◆「反対」が禁句だった立地地元高浜町
 私は4年前に大阪からUターンし、高浜原発から4km、大飯原発から15kmのところに住んでいます。いま、立地地元の高浜町内で「原発反対」を名乗る組織はありませんし、1970年頃の建設時も組織だった運動はありませんでした。個人的な会合であっても反対や疑問の声を出そうものなら、”権力”、”暴力”で黙らせ、町全体を”金力”で支配する体制にされて、住民は見ざる、言わざる、聞かざると批判的な話は全く出来ません。フクシマが起きるまで、おおい町や高浜町内では「原発反対」は禁句でした。いまでも原発関係で働いている人が多く、表立って言えません。確実に変わったことは「原発事故は起きない。よって避難のことを考える必要がない」から「事故は起きるかもしれない。避難は考えておくことが必要」へ。避難は原発推進・反対関係なく、いかに被曝をしないで逃げるかのみです。前(北)は海、後ろ(南)は山で避難する道路は東西に走る国道27号線しかありません。舞鶴若狭自動車道(一車線の対面通行)もやっと今年の夏に舞鶴・敦賀間が全線開通する予定です。福井県は避難先を県内だけでなく、関西広域連合に呼びかけ、高浜町の避難先は兵庫県宝塚市、三田市の学校やスポーツセンターなどに決めました。しかし、避難ルートやスクリーニングは決まっていません。原子力規制庁は再稼働にあたっては新基準の審査に適合することと避難計画はセットであり、車の両輪だと言いました。高浜町民1万1000人の過半数6000〜7000人が参加する訓練をやってこそ、避難計画の検証が出来るはずであり、再稼働はそれからの話です。紙の上で避難計画が出来ればいいというものではありません。

 

◆対策は後手後手
 九電・川内原発の次は関電・高浜原発だと言われています。関西電力は5月16日の規制庁の審査会合で「高浜発電所の基準地震動をおおむね了承いただいた」として、今後、速やかに550ガルから700ガルに引き上げる耐震対策を進めることで再稼働の条件は整ったとしています。そのため、今夏の再稼働は無く、来年以降に延びました。しかし、発電所にもっとも影響を与える活断層としてあげる「FO-A、FO-B、熊川断層の3連動」だけではなく、むしろ、今わかっていない断層による地震の方が多く、地震予知の難しさを指摘する学者が多く、700ガルにしたからと言って安心な訳ではありません。津波対策についても関電は「太平洋側のような大津波は無い」としていました。しかし、福井県の危機対策・防災課は一昨年「福井県における津波シミュレーションの結果について」を発表し、予想される津波に対し対策をとるように県内の各市町に指示をしました。それによると現在判明している海底断層の一つ「若狭海丘列付近断層」が強く影響するとして町内最大波高を5.9mとしました。しかるに、高浜原発では冷却水取り入れ口に津波来襲時に閉める4mの防潮ゲートを造っており、冷却水放流側は外洋ではなく湾内のため、直接波高が当たることは無いとして、2.5mの鋼管杭にポリカーボネイト板の防潮壁を造っています(来年3月完成予定)。3・11大津波の波高の映像を見て、とてもこのような壁で耐え忍べるとは思えません。また、フクイチで大変重要な役割を果たした「免震重要棟」も狭い敷地の中で、工事用車両の駐車場に使っていた場所から車を追い出し、現在建設中です(完成予定は来年9月)。燃料が溶融する重大事故時のヨウ素除去フィルタ付ベント設備も来年度中の完成を目指して着工したばかりです。


 ないない尽くしにもかかわらず再稼働することばかりが前のめりに進められる中、福井地裁の判決を武器に「西川県知事に原発の再稼働を認めない」要請署名を県民の過半数をめざして準備中です。

 
 ないない尽くしにもかかわらず再稼働することばかりが前のめりに進められる中、福井地裁の判決を武器に「西川県知事に原発の再稼働を認めない」要請署名を県民の過半数をめざして準備中です。

 

 

           

 

 

宮崎からのおたより

                   2014年4月   内田@宮崎さん

 私が現在暮らしていますのは、九州の宮崎県です。2012年11月に仕事の関係で千葉県から転居しました。実態として本裁判の傍聴等に臨む事は難しいのですが、大飯原発の持つ意味を思い、裁判に参加しています。

 私は2012年の大飯原発の再稼働を忘れる事はありません。泊原発が停止した5月から、日本で原子炉が1基も稼働しない日が始まりました。しかし2か月後に大飯原発3、4号機の「再起動」が強行されました。その間には、官邸前に20万の人が集まり、6.17福井集会、6.30/7.1大飯行動、9.16の17万人集会と、原発をめぐる人々の"思い"は、大飯原発の再稼働をキーワードにして、大きく広がって行ったと思います。

 話変わりまして・・・私が住む宮崎県では、福島第一原発事故を機に、福島県や関東地方から避難された方々が暮しています。これらの方々の情報交換や孤立防止を目的に作られたネットワークは、今では300世帯を超える規模になり、交流の輪が広がっています。また福島の子どもを招き、一時的な保養をする("外遊び"を満喫してもらう)プロジェクトも、地元の方々の支援で行なわれています。

 そんな中、3月に事態が展開しました。原子力規制委員会が、鹿児島県の川内(せんだい)原発の規制適合性審査を優先して行う事を決定した事により、川内原発が再稼働の第一号となる可能性が大きくなりました。宮崎県は、最短で川内原発から東方向へ54kmの距離にあります。これは福島第一原発から飯館村までの距離と同程度であり、正に被害地元となります。今私たちは、川内原発の再稼働を止めるために動いています。宮崎には原発の立地を止めてきた歴史があり、当時のメンバーも健在です。今度の相手は、隣県の、それも準備万端の原発です。頑張りどころです。

 私は向き合い続けたいと思っています。福島第一原発の事故、大飯原発3,4号機の再稼働、川内原発の再稼働。これらに向き合い、疑義を呈し続ける事が、私がすべき事ではないかと思っています。そしてこれからも大飯原発にコダワリ続けたいと考えています。

 

 

2013年10月

写真:河合さんが中心となって主催した菊次郎作品展の新聞記事

 

       『カタツムリのスピードで』

                              河合良信

私たちは自覚しなければならない
ただ生きて死んでいくだけだということを
何をして何を残すのか
それとも何も残さずにただ生きるのか

私たちは自覚しなければならない
今使っている石油の裏側では戦争が起こっているということを
今使っている電気の裏側ではたくさんの命と生活が犠牲になっているということを

私たちは自覚しなければならない
飼いならされた動物だということを
あなたがペットを飼ったり、牧場で牛が飼育されているのと同じように
私たちは大いなる生命のいとなみから取り残されているということを

 この詩はつい数日前、ふと思い立ってペンを取って書いたものです。「人間は天敵をすべて滅ぼしてきた。そして人間同士が殺しあうようになった。だから戦争は終わらない。」そう言うのは、最近よくお世話になっている83歳のおばあちゃん。おばあちゃんはアインシュタインの言葉を引用してこうも言っていた。「この世に果てしなきもの2つあり。一つは宇宙の神秘であり、もう一つは人間の愚かさである。」


 私が国の在り方に疑問を持ち、表立って社会問題に対しての運動を始めるようになったのは去年の4月からであり、つい最近のことです。それまではギターと共に日本国内および海外を旅してブラブラ遊び歩いていただけでした。3・11の震災、そして福島原発の災害、それは私にとっては世界の終わりを垣間見たような衝撃でした。それと共に、日本中では原発の反対運動が巻き起こり、当然日本から原発はなくなると思っていましたが、実際そうはなりませんでした。ライブで演奏する機会があれば毎回、「原発に対して真剣に一人一人が考えていこう」と言いましたが、思ったような手応えも反応もないことが多かったです。


 知れば知るほど、国の在り方には疑問がわいてきて、今までいかに無知で無関心に生きてきたかを思い知らされます。国が市民に対してやってきたことを知らなさすぎた。結局国や権力者というのは、自分の立場を守るために何かを利用するだけのものであり、そのためなら暴力や情報操作、洗脳すらもいとわない、嘘や隠蔽はお手のもの、原発問題に取り組んで行き着いた先がそういったものでした。


 私も32歳になり、それなりに社会経験をして、いろんな人と会い、話をしたりしてきたつもりです。時間をかけて話し合い、腹を割ってお互い言いたいことを言うことで誰とでも分かり合えると思っていたし、何かを変えようと思ったら自分が変わればいい、そんな思いで他人と向き合ってきたつもりですが、どうしても分かり合えない価値観というものが存在することに最近気付きました。逆に、価値観の合う人というのは本当に少ない、ということも知りました。なぜ同じ生き物なのにこうも価値観が違うのだろう、分かり合えないのだろう。まるで、この地球という宇宙に浮かぶ一つの星は何種類もの宇宙人で造られていて、だからお互い相容れない価値観を持ち合わせているのではないか、とも思ったりしました。当たり前のように何かを犠牲にする人、それは人としておかしいと思う人、ただそれだけでも絶対的に相容れない価値観です。なぜこうもお互いを思いやって生きていくことができないのだろう。見栄や一方的な自尊心は自分を苦しめるだけだということになぜ気付かないんだ。絶対に相容れない社会と人との狭間で、「平和」というとても不安定な言葉について考えました。お互い相容れないなら、お互い干渉しなければいい、原発で電気を作りたいなら、人には全く迷惑をかけずにやりたい人だけでやってくれ、戦争をどうしてもやりたいなら、他人には全く迷惑をかけずにやりたい人だけでやってくれ、そんなことも考えましたが、あいにく原発も戦争も巻き込み型で、他人に迷惑をかけないというのは今の地球の中ではほぼ100%無理でしょう。


 2年前の真冬の時期、私は北海道の牧場で働いていました。動物に触れて仕事をするということは、一度経験したいことでありました。毎日朝晩、牛の乳を搾り、嫌がる牛に対しても何とかして乳絞りをしました。その代わりに餌をたっぷりとやりました。ある日、子牛が産まれました。生まれた子牛はすぐに親元から引き離され、母から乳をもらうのではなく人の手から与えられます。そしてその子牛が雌であればずっとそのまま育てられて、いつか人工授精で妊娠して子どもを産んで、子どもを人間にとられて乳だけ搾り取られて、乳が出なくなるとまた人工授精で子どもを産み、子どもを産めなくなった牛は牛肉として売られるか処分される。雄として産まれた子牛は、牛肉として売るために大事に大事に育てられる。病気になった牛は、治療にお金がかかり採算が合わないと判断されると処分される。命の尊厳もへったくれもありません。何となくではわかっていたものの、私たちが当たり前のように手にしていた牛乳や肉は、こうして作られていると、直に働いて初めて身に染みて感じることができたものです。黒人奴隷、奴隷制度、身分制度について、世界では時代の変化と共に変革を起こしてきましたが、動物に対する扱いについてはあまりにも無関心でいられるのです。人間が動物に対してしている行為は、自分の損得のために何かを利用するというあまりにも身勝手なもの。生命のコントロールをしてまでもやってしまう。そんなことをしてしまう人間、それに無関心でいられる人間が、果たして自分に対して降りかかってくる戦争や差別に対してだけ「NO」と言い、それを実現するという都合のいいことができるだろうか。戦争や差別のない世の中をつくるなら、私たち個人と私たちの社会が、動物や自然環境に対して行っている行為も見つめなおさなければならない、と私は今までの人生と牧場での生活を通して思うようになりました。根本問題はそこにあると思っていますし、考え方によっては非常に簡単なことにも思えます。まず自覚することから、自分なりにできることを考え、行動する。「善きことはカタツムリのスピードで動く」とマハトマ・ガンジーが言うように、少しずつ、少しずつでも、私たち人間の生き方、考え方が変わっていくことを願います。それがいつか国を動かす力となるように…。


 旅の途中によく立ち寄った、新潟県の直江津駅の近くのとある喫茶店のおばあちゃんに言われたことをときどき思い出します。「原発の運動なんてしてる暇あんたにはないでしょう。そんな暇があったら人の心を打つ歌手になりなさい。」そんな言葉が私の背筋をビシっと叩きました。物事に良いか悪いかなんて答えはありません。ただ、私は思う、という答えがあるだけだと思います。自分は本来ミュージシャンであり、こういったことをウダウダ書いている性分ではないと思っているのですが、今想うことを言いたいし、今思うことをやりたい。そしていつか世の中への不満などを言わない自分になりたい。そんな自分になれるように、私は今日も生きていく。いろいろ考えた末、私はいつも「生きる」という言葉で簡単にまとめてしまいます(笑)。自分の経験と知識の中ではそんな答えしか思いつきません。裁判でも何でも、素直に真っ直ぐに想いを表現している人を私は応援したいし、そんな方々と共に生きていきたいと思っています。

 
 
2013年4月

鶴居村にて       酒井照子

 空は快晴、気持ちの良い道東ブルーの青空。私たちは 根室から大鷲ウオッチングの帰り道だった。
私は多分悲鳴を上げただろう。目の前に鹿が三頭。鈍い衝撃音がして車を止めた。あっという間の出来事。
ラジエターが破れて もうエンジンはかけることが出来ない。路肩に車を移動させて救援を待った。両側は凍った湿原 人家はなく 夕闇が迫ってきたけれど街灯もない。外気温 –10度前後 暖房をかけることが出来ない車中で「遭難??」と心細く思いながら随分待った気がしたけれど、30分弱で救出された。車から出るとき助手席のドアは開かなかった。ボンネットは浮き上がり被害甚大。でも鹿さん親子は すぐに森に消えてしまっていて 血の後もなかった。この後、救援に来て下さった小さな自動車工場の御家族から なぜか温かいもてなしを受け 薪ストーブを囲んで話に花が咲き シカ肉や海草などのお土産まで頂いた。
毎日が氷点下の寒~い北海道で 先ず出会った あったかい思い出の一つです。
鹿は逃げません。とことこと親子で横断中 道の真ん中で立ち止まりジーッと車を見つめます。クラクションを鳴らしても反応しません。そういうことが分かったので、鹿さんに会わない日はない道東では 事故以後 早めに止まって 立ち去るまで待つということを 私たちは学習しました。
鶴を撮りたくて 鶴居村へ念願の長期滞在に出かけた私たち。
夫は毎朝4時に起き日の出を待つ鶴を撮り、日中と夕方は それぞれ別の撮影ポイントへ出掛け 夜は撮りまくった写真を選別する作業。まるで仕事のように日課をこなしていました。
私はね 釧路まで出て美術館にも行きましたし、3か月もあるのだからと ヨガと植物細密画を習っていました。
旅立つ前から No nukes946(クシロ)のメールリンクに入っていたので 行ってからは釧路駅前金曜集会にも出ていました。氷都と言われている釧路の夜は もちろん氷点下15度くらい。その中で子供を遊ばせながらの若いママもいました。マイクを持つ手がジンジンします。釧路は泊原発から315kmくらい。私は美浜での風船飛ばしの例をスピーチしました。
北海道では 2011年11月に612人の原告により「泊原発の廃炉を求める訴訟」を起こしました。
そしてその1年後、第2次原告の募集では 1次募集を上回る621人の応募があり目標の1,000人を超える1,233人(海外2人)の原告団となっています。1歳から最高では90歳まで幅広い年齢です。賛同金は1口1,000円、原告は10口以上の賛同金です。(余談ですが原告団長のお1人は小野さんという小野ヨーコさんのいとこ)
口頭弁論はもう5回を数えています。札幌地裁には毎回 道内各地から 傍聴席の倍の人数が集まるとお聞きしました。抽選に外れた人達は 近くの会場で集会を持ちます。
 鶴居村、釧路を含む道東に来て驚いたのは ソーラパネルをのせた家が多いことです。太陽光発電は気温が低く日射量が多いとより発電します。それには寒くて いつも青空の道東が最適地なのです。釧路の年間予測発電量は(1kw当たり)1,116kwh 全国的に見ても適地であるようです。鶴居村の借りていた住宅の回りだけでも 数件以上のお宅にパネルがのっていて 散歩するのが楽しくなりました。
鶴居村は酪農で豊かな村、空を見上げれば鶴が飛び、道では鹿やキツネと毎日出会います。
1920年代に 絶滅したかと思われていた鶴が再発見され それから鶴に選ばれた村として鶴の保護に力を入れてきた鶴居村。村の3割?くらいを釧路湿原が占めています。
広大な釧路湿原ですが かっては農地や宅地にと開発に力が入れられていました。でも「自然には勝てるわけがなかった」と湿原ウオッチングで同行した地元の方が洩らされていました。いくら干拓しても湿地に戻ってしまったそうです。
今は貴重な自然に気付き 釧路湿原再生プロジェクトが組まれ 元の湿地に戻すために 干拓したところにせっせと土を埋め戻す作業が行われています。干拓にも膨大なお金がつぎ込まれたそうですが、人は失敗からしか学べないものなのでしょうか。このプロジェクト10年目を迎えていますが あと何年かかるのでしょう。
原発でも もういい加減 学ばなくてはなりません。湿原でも10年経っていますが それどころではないのですから。どうぞ皆様行くなら道東へ。サングラスを忘れず持って自然の中へ。
(12/29~3/23まで鶴居村に滞在) 

 

 
2012年5月

気持ちが通じるということ(反省を込めて)     2012年5月16日  

渡利 與一郎

 私のような「運動」経験がほとんどない一市民が、脱原発活動の真っ只中にいて他者との関係が濃密になればなるほど、当たり前のことなのですが、人は一人一人顔が違うように考え方も違うことを嫌が応にも実感することがあります。
 人は誰しも、生い立ち・環境・努力・現在の立場などにより自分の考え方を形成し、その基準を糧に辛い浮世を一所懸命に渉っています。人に拠り「思想」「信念」という「かたち」、或いは「思想」「信念」を持たず、風見鶏の如く状況を観ながらという「かたち」もあるでしょう。何人によっても、どの個人の「かたち」も咎める事はできません。
 普段の娑婆は当然、脱原発という言葉を共有した個性的な人間の集まりにおいても決して例外ではなく、「かたち」の違う人間同士ガ、自らの人生の或る瞬間が交差する脱原発活動という場に、偶々身を投じているのが本質的な人間の姿ではないでしょうか。
 そう思い切れれば、他者に対して無理矢理自分の理論を強制したり、自己顕示的に突出しようとせず、その集まりにいる事がとても尊く、そこにいる人達がとても大切になり、私にはその瞬間の光芒こそ奇跡的なことに思えるのです。
 翻って、私は「脱原発、再稼動阻止」を市民の方々に広める使命感に突き動かされ、黒白はっきり結果の出る「訴訟の会」に入り活動しています。
 入会した宿命として他者を勧誘したり説得したり、また人前で自分の意見を述べる機会が増えてきて、他者との淡白な関係を至上とする「君子の交わり」を尊重する私にとって、現在のこのような目立った事態は、生き方と矛盾するようでもありますが、前号で紹介された哲演さん断食中の訪問から得た大きな示唆により、一歩前に進むことが可能になりました。
 「一人でも多くの方々が活動に参加なさるにはどうしたらよいでしょうか」という私の質問に、「人々の魂に訴えることです」と断食中の哲演師が答えられた一言が、私の内なる矛盾を解消させることになったからです。
 それは前回の「かたくり通信」に一部掲載されていますが、福島における二ヶ月に及ぶ私の赤裸々な真実のボランティア体験を、説得や勧誘といった「はからい」を捨て、素直に皆さんの前に開示することだと思い至ったのです。
 そこには、プライバシーも絡む微妙な問題も発生しますが、それを避けて通ることは皆さんに真実をお伝えしないことになり、私としては恥ずべきことに思うのです。
 そこは、開き直る訳ではありませんが、私が脱原発に懸ける不退転の覚悟を担保に、お許しを請うしかありません。予めお詫び申し上げます。
 これから、私の記す「ほんとう」が、魂の響きあいとして皆様に受容されたなら、これに勝る幸せはありません。
 私は従来から心情的には原発に反対していたものの、態度として表面化させたことは一度もありません。
 それが今回、傍観者であった私を目覚めさせ、原発差止め訴訟の原告として活動に身を投じたのには、大きく二つの理由があります。
 一つは、「かたくり通信」にも掲載されたとおり、福島でのボランティア体験中避難区域に入り、人の気配の無いゴーストタウンのような町並みを目の当たりにし、こんな状況は一企業や国家にすら絶対許されることではないという、心の底から湧きあがる強い憤りを覚えたからです。
 故郷で暮らす自由と故郷で幸福になる権利を突如奪われ、充分な補償もされず、流浪の民の如く望郷の念に駆られつつ苦難の内に血の涙を流し生活する多くの人を思うとき、座して沈黙するわけにはいかなかったのです。
 仮に、福島の人災という犯罪行為に目を瞑り、原発の再稼動という事態を黙過すれば、私は国家という名を騙る一部の権力者と卑劣な原子力村村民に屈したことになり、実質上獄に繋がれた如く自由と幸福になる権利を奪われたまま、この日本という国で生き永らえたくはありません。
 二つ目は公にしたのは初めてですが、ボランティア仲間の女性に惚れたからです。
名前をご存知の方も居られるでしょうが、高遠菜穂子さんといいます。彼女はイラク戦争の最中、いのちの危険も顧みず単独でイラクに入国し劣化ウラン弾による内部被爆に晒された子供たちを助け、戦争で傷ついた子供たちのために様々な支援を長年していられ現在も継続中です。
 彼女の名前を一躍全国区にしたのは、皮肉にも活動自体よりイラクにおいて人質になった彼女を、マスコミが挙ってボランティアの自己責任論で一斉に叩いたからでした。
 当然のようにマスコミに影響された世論もほとんどが彼女に冷たく当たりました。私は従来からマスコミの欺瞞性に着目し信用していなかったのと、阪神大震災に単独ボランティアで行った時、多くの地方公共団体が多くの税金を投入し、自己責任のボランティアを引き連れ、彼らの活動中危険が及ばないように配慮していたのを目にしていましたから、マスコミや世論を冷ややかに見つめてはいました。
 その彼女が、東日本大震災の報を聞きイラクの活動に区切りをつけ、飛行機を乗り継ぎ福島の南相馬に駆けつけた。南相馬は一部が避難準備区域に指定され避難者も多く、通りは人がほとんど歩いていず閑散としていた。
四月中旬、南相馬のボランティアセンター前は、多くの男性ボランティアがひとりの女性を幾重にも囲んで時ならぬ賑わいを見せていた。
 日頃、他者には余計な干渉はしないと割り切っていたつもりでしたが、何故かその時は悲惨な被災地に相応しくない光景に違和感を覚え、
 「特別扱いはしないほうが良いよ」
 多少棘を含んだ言葉に、高遠さんは男性陣の肩越しに私をキッと睨んだ。
 私は大人気なさを少し後悔し、被災地に向かうとき、彼女に声を掛けた。
 「僕の車に乗りませんか」
 「良いのですか。有難うございます」
 戦場で活動しているイメージから程遠い、素直で控えめな返事に私は意外性を覚えた。
 活動は泥出し。家に溜まった放射能の高い重い泥と瓦礫が混じったものをスコップで掻き出し、一輪車に積み道路まで運ぶ繰り返し。
 高遠さんと私は抜きつ抜かれつ、二十回以上は往復した。男の私でも相当疲れたが、彼女は力を抜かず、男に伍して颯爽と働く姿は「鬼神避くるが如し」の形容がピッタリだった。私は敬意を込めて、密かに「福島のジャンヌダルク」と命名した。
 後日、風の便りに若い男性ボランティア達から「姉御、姉御」と慕われたと聴いた。
 四・五日ご一緒した後、私は別の現場に行ったが、二・三日経って携帯が鳴った。
 「南相馬の放射能測定手伝ってもらえますか」
 「分りました」
 もう一度お会いしたいと思っていた矢先だったので、高遠さんからの急な要請であったが、私は二つ返事で快諾し、新地に向かっていた車をUターンさせ、南相馬に向かった。
 放射能の計測途中、私は放射能で全滅した町を案内した。飴のように曲がった鉄橋、家の基礎と散乱する瓦礫だけの絨毯爆撃を受けたような不気味な沈黙が支配する一面の平地。放射能の影響で瓦礫撤去は進まず、遠くの方で僅かに数名の自衛隊員が宇宙服を連想させる白い防護服姿で作業していた。
 彼女は、全滅の町に唯一聳え立つ鯉幟を見つけ走り出した。私が追いつくと、鯉幟の根元に、子供の写真と菜の花を挿した空き瓶の有る場所に、彼女は額ずく姿勢で手を合わせていた。時間が止まったように永い静寂が訪れた。私は彼女の肩が微かに震えているのを、ただ見守るだけだった。
 次ぎの測定地点に移動中、ゴーストタウンに不釣合いな鮮やかな黄色い菜の花畑を眼にすると、突然彼女は口を開いた。
 「イラクに係わり随分時間が経ってしまいました。私は次ぎの世では結婚も子供も必ず叶えたいと思います」
 「・・・そうですね」
 なんの衒いも感じられない彼女の自然な淡々とした語りに、不意を衝かれた私は、涙を覚られないように菜の花畑に顔を背けた。
 「あなたは人の何倍も辛い経験をなさったでしょう。もう現世で幸せを掴んでください」
 「爆弾がすぐ側に落ちたこともあり三回死を覚悟しましたが、イラクで飢えや劣化ウラン弾の放射能汚染に苦しんでいる子供たちを見過ごせないのです」
 「でも」彼女は言葉を継いだ。
 「人質になったとき、マスコミの自己責任論で苦しめられ自殺寸前まで追い込まれた辛さを思えば、まだ我慢できます」
 そういえばあの時、マスコミが世論操作した魔女狩りのような煽動に沈黙し、彼女を励まそうともしなかった自分を思い出し、今更ながら洗脳の威力を実感し、いのちを捨てる覚悟で子供たちを救うことに人生を懸けた稀有な存在の彼女に対して、申し訳なく、覚悟も定まらず小さい自分が恥ずかしくてたまらなかった。
 この時以来、私は彼女に惚れてしまったようです。いや彼女の覚悟に惚れたのかもしれません。しかし電話もメールもしたこともないし、多分一生しないでしょう。魂は繋がっていますから。ただ彼女の活躍は見守り続け、火急の時には妻にだけはことわり、イラクに駈け付けようと思います。
 確かに、私は彼女との短い数日のボランティア体験で魂の響き合う瞬間を共有しました。だからこそ私は彼女の捨て身の覚悟に悖らない残りの人生を歩もうと思っています。
 何時の日か「この人と二人、南相馬でボランティアしたのよ」と言って貰える日が来るように、原発と心中する覚悟の生により、有終の美を飾ろうと思います。